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漢方医学の歴史(古代中国編)

 今から三千年前にあたる紀元前800年頃、中国大陸では春秋・戦国時代を迎えていました。戦乱のさなかではありましたが、文化はいちじるしく繁栄し、特に黄河を中心に栄えた文化圏のなかから、たいへんすぐれた医学の実践記録が残されました。それは東洋哲学思想である陰陽五行説をもとにして、自然と人間のかかわりあいを考え、それを受ける体内の五臓六腑との相互関係を病理、診断、治療、予防に整理し体系づけた『素問』と、解剖、生理、経絡、鍼の臨床部門をまとめた『霊枢』の二書からなる『黄帝内経』(こうていだいけい)といわれる書物でした。伝説上の皇帝である黄帝と弟子との問答形式で書かれ、古代中国の言伝えを集めてできたものと考えられますが、この『黄帝内経』は東洋医学最古の書物であるといえましょう。
 時代が下り、互いに利益を求めて死闘を続けた戦国時代は、もっとも後進国であった秦の勝利に帰し、紀元前221年始皇帝により天下統一は果たされました。この秦の時代には、扁鵲という伝説上の名医があらわれます。扁鵲は漢方医学に豊かな才能を発揮し、広く世の病める人々を救いましたが、種々の治療をほどこしたうちでも、カクの太子を死からよみがえらせた話や、斉(せい)の桓公(かんこう)の顔色を一目みて、死ぬ病いをおこすと予言した話などは有名です。こうして扁鵲の名声はいやがうえにも高まり、現在でも漢方医学の神様とあがめられています。若き日の扁鵲については『史記』に次のような逸話が伝わっています。
 扁鵲がある人の舎長をしていたとき、長桑という隠者が客として滞在していました。丁重にもてなし十余年の歳月が流れたある日、扁鵲は長桑に呼ばれました。「私は年老いたので秘法の医術をあなたに授けるが、けっして他言してはいけない」と、秘法の医術書を扁鵲に与え、ふところの薬をとりだして「これを雨露で飲みなさい。三十日目になると不思議な物象をみるであろう」というや、フッとその姿はかき消えました。扁鵲がいわれたとおりにして薬を飲み、三十日たつと、塀をへだてた向う側の人をみることができ、しかもその目で病人をみますと、病気の源となる所在をしかとみつけることができたということです。
 二〜三世紀、後漢の時代にはいると、漢方医学および漢方薬の原点ともなった二大医学書を校定した長沙の太守・張仲景が登場します。張仲景は、それまで使われていた治療法や漢方薬の記録を広範囲から集めて、それを整理、体系づけて『傷寒論』『金匱要略』を完成させました。このうち『傷寒論』は、主に急性の病をとりあげ、病気の変化を陽病と陰病にわけ、それに対応する治療法を述べたものです。揚子江南部に栄えた江南文化圏の薬物療法中心の医術で、高温多湿の気候のため、流行病が発生しやすい風土に生活していた人々には、大変貴重な論書になりました。
 張仲景は、『傷寒論』の序文のなかで「建安紀年(196年)以来、まだ十年もたっていないのに、私の二百名を超えていた一族の三分の二が死亡してしまった。しかも死者のうちの七割が傷寒である。何と悲しいことか。そこで私は奮起して、昔からの医学書や言伝え、各地で使われている薬方などを集め、研究し『傷寒論』を作ることになった」と、発刊の理由を述べています。この『傷寒論』を『傷寒雑病論』として、傷寒以外の雑病とあわせて十六巻を作成したと伝えられていますが、なんらかの事情で、これが『傷寒論』と『金匱要略』に二分されました。
 後年、宋の時代になって、翰林学士(かんりんがくし)の王洙(おうしゅ)が王室の書庫に在職中、虫食いの古書の中から、張仲景の書である『金匱玉函要略方』(きんきぎょくかんようりゃくほう)三巻を発見しました。内訳は、上巻は傷寒、中巻は一般の雑病、下巻では婦人病をそれぞれ論じてありました。このうちのいくつかを応用してみますと、たいへん効果のあることがわかりました。なかには記載が不備で使用できないものもありましたが、林億(りんおく)らはこれを処方ごとに証候と併記して、急な病いのときに応用できるようにしました。上巻の傷寒の部分は略文が多いためこれを切り離し、重複を取り除き、雑病と飲食禁忌までを病状ごとに二十五篇に分け、それを上中下の三巻にして『金匱方論』を改纂(かいさん)しました。これが今日に残る『金匱要略』です。この『金匱要略』は『金匱玉函要略方』とも呼ばれ、たいへん貴重なものであったのです。
 この二大医典は、長い時間と筆舌に尽くしがたい努力の末に完成されたもので、人類が残した歴史的な大偉業の一つといえましょう。


漢方医学の歴史(日本編)

日本における漢方は、五世紀の頃朝鮮半島を経て伝来していますが、唐との交流がさかんになるにつれ、遣唐使を通じて書籍や生薬類も多数持ち込まれました。唐代の高僧鑑真(688〜763)は仏教の布教とともに、医薬技術の伝授をもたらし、その一部は現在でも奈良の正倉院に残されています。しかし、この医学はほとんどが一部の上流貴族階級のものであって、一般大衆には遠く及びませんでした。鎌倉時代に入ってから、貴族階級の没落とともに、徐々に武士や一般大衆のなかへ浸透し、一時下火になっていた漢方医学は再び勢いをもりかえします。
 やがて、安土桃山時代の中期に僧医田代三喜が明に渡り、医学者李東垣(りとうえん)朱丹渓(しゅたんけい)を中心とした金・元時代の医学を学び、帰国後その名声をうたわれました。その弟子曲直瀬道三は、田代三喜のもとでこの医学を修学し、後に啓迪院(けいてきいん)という医学校をひらいて後進の育成にあたりました。戦乱を経て疲れはてた人々が、この医学によって数多く救われたということです。しかし、この道三医学は古くからの『傷寒論』『金匱要略』による医学からややかけ離れた、独特の手法によるものが多かったため、これを後の世で考えられたものとして後世方医学と呼んでいます。

 江戸時代に入ると、漢方医学はますます発達し、広い範囲に普及され、全盛を極めるに至ります。江戸中期には学問の中心となった儒学の影響で『傷寒論』『金匱要略』の原点に帰る運動がおこされ、名医香川修徳、吉益東洞らが少量の薬味で切れ味豊かな効果をあげる、古方医学を復古させました。非常に論理を大切にするこの古方派に吉益東洞、その弟子に尾台榕堂、昭和の湯本求真へとつらなる系譜があり、また、治療を主体とする後世方派には曲直瀬道三の一門が、そして、両者の折衷派とも言える一派をなしたのが浅田宗伯で、それぞれ江戸中期から明治に至る日本の名医たちです。彼らによって、中国伝来の漢方医学はさらに追及され、そして実用化されたのです。いずれの派の優劣を求めるのではなく、あくまでも学問上の問題として、その本質は張仲景のいう「いかに病人を悪病から救うか」という事実が重視されるのです。
 しかし、二百年にわたる鎖国が破れ、明治維新を迎えると、一度に西洋文明が流れこみ、同時に西洋医学も輸入されました。集団治療に欠ける漢方医学は、古人のたわごとであるとかたづけられ、また時の政府の強い弾圧にあって絶滅に近いほど埋没してしまい、長いあいだ漢方医学は暗黒時代にはいったのです。それにもめげず、幾多の困難を乗り越え、この漢方医学を守り抜いた一部の医師や薬剤師によって、再び今日の興隆を見るに至ったのです。
 現代日本の漢方は、すべて中国伝来のものばかりかというと、決してそうではありません。現に本家の中国でも『傷寒論』『金匱要略』による古方医学はあまり使われてはおらず、明・清時代の比較的新しい医学が主流で、しかも、現代医学も積極的に導入されているといわれます。日本では思想の違いもさることながら、古来の漢方医学を基礎として、古くからの医療とあわせ独自のものを形成しており、各派もそれぞれ交流し、統一的な日本東洋医学としてさらに前進しつつあります。


薬物発見の歴史(本草学の話)


 その昔、中国に頭には角がはえ、手足には鋭い爪をもち、目は数千里もかなたを見抜くという能力をもった、神農という神様がおり、山野をかけめぐって数多くの薬をみつけました。「神農は嘗めて一日七十の毒に遇った」という伝説が伝えられています。この医薬の開祖神、神農の名にちなんでつけられた中国最古の本草書に『神農本草経』があり、揚子江文化圏を代表する古典といわれ、後漢の頃体系化されたといわれています。この書の内容は365種の薬物を上薬、中薬、下薬に大別して次のように書かれています。「上薬は君薬とし120種、養命をつかさどり、毒がなく量をおおく飲んでも、長期間服用しても人命を傷うことがなく、身を軽くして元気を益し、不老延年の効がある。中薬は120種これを臣薬となし、養生を増すもので、毒のあるものとないものがあるため、適当に斟酌して病をなおし、体力のないものを補う効がある。下薬は125種でこれを佐薬といい、病を治すことをつかさどり、毒がおおいから長期間服用してはいけない。なお、これらの薬を配合して使えば、お互いそれぞれの力を出したり、倍の力を出しあったり、逆に力を引きあったり、害をなしたりする」と。
西暦五〇〇〜六〇〇年の頃、梁の陶弘景はこの『神農本草経』をもとに、漢、晋時代の薬物を追加し『神農本草経集註』に730種とし、さらに唐時代にはいってから、蘇敬の『唐新修本草』は840種となりました。この時代のものが日本に入ってきた最初の薬学書となります。やがて、時代の変遷とともに中国文明は発達し、漢民族の発展に伴う交易圏の拡大によって、記載される薬物の数は次第に増加してきました。1578年明代の名医李時珍の手によって『本草綱目』が出版されるに及んで、その数は1892種にふくれあがりました。
 我が国では、江戸時代中期に吉益東洞が『傷寒論』『金匱要略』の条文にもとづく薬の主治、効能を分類して、1771年に『薬徴』という比類のない論書を残しました。この『神農本草経』『本草綱目』『薬徴』には、薬に味があることを示し、それが薬効と一致することを証明しています。
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